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過激な写真サイトはどうにもならないのか?
2007年9月上旬、宮崎県庁本館前で全裸になった女性を写真撮影、公然わいせつ容疑で男女3名が逮捕された。この1月23日は東国原県政が1年目を迎えた日で、翌日のニュースでは知事よりもこちらのほうが注目を集めてしまった。 公的な場所で女性が全裸になっている写真を不特定多数が閲覧できる形でネット公開、 それを見た人が匿名で通報、逮捕者が出たそうです。 知事よりも注目を集めたそうで・・・エロの力はすごいというか呆れますよね。 裸になる場所を予告し公開していた・・・ 香港の流出事件と較べると面白いです・・・自ら公開予告してますから・・・ ごめんなさい不謹慎すぎましたね。 彼らのホームグランドであるホームページには、意外と「応援します」といった書き込みが目立った。「何で通報するのだろうか。好きな人の楽しみを奪うのは許せない」といった書き込みが気になった。 [ネットは自由なのにリアルでは自由でないことの矛盾] これは問題発言ですよね。何故問題かというと これはリアルとネットのルールが共存してしまっていることにより 発生する矛盾だと思います。 「ネットは自由であるべきだと」という主張をする人をこのブログでは ネット自由派と名付けます。ネット自由派からすると つまり「ネットは自由であるべきなのに、つまんない、許せない!」ってことなるわけです。 私はこの発言にだいぶ距離を感じます。 ネット自由派の意見によく欠落しているのは 「ネットとリアルの矛盾」の問題です。 無根拠に提示される「ネットは自由であるべきだ!」という意見は 私のような「ネットのある部分に違和感を感じる人間」にとっては非常にまぶしい。 村上龍などの大作家はネットのメリットだけをごっそり取り上げてるし、 ネットメディアはあたかもネットが何の疑いもなく自由であることを推奨している。ネット上で反ネット的な意見を探してもなかなか見つからない・・・ [ネットの同調圧力] このネットの自由に反するような発言自体がしにくいという空気があると思うんです。 このブログの紹介文にもありますが、「ネットの同調圧力」とは 保守的とか、反動的とか、時代遅れであるとか、そういうネガティブなイメージを前提的に押しつけられていることによる息苦しさです。 単なる匿名者の「何で通報するのだろうか。好きな人の楽しみを奪うのは許せない」という発言は単にこの空気を助長する方向にしか働かない。 [リアルに及ぶ不公平] 私はこの空気そのものに違和感を感じるので このブログでボソッと「んじゃ・・・リアルはどうなんのよ?」というツッコミを入れるわけです。 つまりリアルとネットがリンクしている限り 片方だけルールが違うというコトによる矛盾が発生し、 それがリアルの世界に不公平な状況をもたらしているという不満も発生するということ。この事件で言えば、「ネットで不特定多数に公的な場所での全裸写真を公開してもいい」ということになれば、それは「じゃあなんでリアルで公的な場所での全裸写真を撮影しちゃいけないのか」ということになってしまいます。著作権違反でいえば、「じゃなんでリアルでは金出して買ってるの?」ということになってしまうのです。 [その人によってメリット・デメリットは異なる] 何故そういう不公平な状況に気づかないでそういう無神経な発言ができるかと言えばその発言する人にとってメリットのほうが大きいからでしょう。もっといえばデメリットのほうが大きい人間がいるということを考慮していない。そしてその人間を無視して発言しているということです。 自分ひとりで楽しむために開設したプライベートなサイトならまだしも、自分と同じ趣味を持っていようが持っていまいが、不特定多数の目にさらされるようなところに開設していることに問題はある。 これも当然のことですよね、なんでこんな当然なことを言わなきゃいけないのかなとも思いますよね。ネットではリアルで当然のことを言いにくい空気があります。だからこそ、あえて当然のことを発言することに大きな意味があるわけです。ネットの現状の自由さというのは、「自分の自由が他人の自由を阻害するかもしれない」という視点を欠けさせていると思うのです。 子どもへの悪影響を考え、フィルタリングなどの対策が必要だろうが、このようなサイトはどうにもならないのだろうか。 この記者の方は、フィルタリングじゃ物足りなさを感じているようです。 私もフィルタリングだけではリアルの矛盾を解決するにはほど遠いと感じます。 [ネットの自由というイデオロギー] 私は何もこのブログでネット自体を否定したいわけではないのです。私が言いたいのは ネットの自由は何にでも誰にでもどんな状況においても便利で有効であるとは限らないということです。ないほうが快適な状況というのもありうるし、無批判に自由を押しつけるのは、自由というイデオロギーによるファシズムでしかないと思うのです。 例えば、ポップカルチャーで見れば、明らかに「ネットの自由」により、 著作権違反が蔓延し、ポップカルチャー自体が市場の力を失い、 ポップカルチャーとしての力を失いつつあるように私には見えます。 しかし悪いのはネット自体ではなく著作権違反行為が悪いわけで、 それを容認している全てのネットユーザーに問題があるわけです。 何故私がこのブログでこの問題をよく取り上げるかといえば ポップカルチャーは衰退しているのではなく、 ネットの登場により「さらに消費される可能性」を持っているからなんです。 これは著作権違反のダウンロード数を見ればわかることです。 明らかに「超資本主義的な市場」があるのに、不正行為によって無駄にされてしまっているわけです。不正に消費されているという不幸を単純に「情報化の波」という文脈で語るとポップカルチャーの可能性を無視してしまうことになるのです。著作権違反は「ないほうがいい自由」であると私は思うのです。 またネットの自由があることにより犯罪が発生し、それが起こる度に規制を作っていくと、結局はリアル、ネット共にさらに法整備する動きになり、「ネットが無いときより生活しにくくなる可能性」をという矛盾の問題もあります。2ちゃんねるの管理人の「取り締まりたいなら法律作れ」という無責任な発言は、「逆説的に自由を奪っている可能性を孕んでいる」ということを忘れてはならないのです、つまり「押しつける自由はもはや自由ではない」という矛盾ですね。 関連リンク:大日本人に見る同調圧力 |
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